言語ゲームをめぐる視座の書庫
カテゴリー[ 書籍メモ楽屋用 ] 2009/07/14
■基礎編
『ポスト・モダンの条件 知・社会・言語ゲーム』 ジャン=フランソワ・リオタール著 小林康夫訳 叢書言語の政治1 書肆風の薔薇/星雲社 1986(1979)
p29-30 大意
《言語ゲーム》という言葉をウィトゲンシュタインは、言表の様々なカテゴリーのひとつひとつが、その特性を規定する規則とその用法によって決定される、という意味で用いている。それは、まさしく、チェス・ゲームが駒の諸特性、すなわち駒を移動する正しい仕方を定める一群の規則によって定義されるのと同じである。
言語ゲームに関しては三点ほど注意を喚起しておく必要があるだろう。
第一点は、言語ゲームの規則はそれ自体のうちにその正当化の根拠を持っているわけではなく、プレーヤー間の、明白なあるいは暗黙の契約の対象であるということ(だが、それはプレーヤーが規則を生み出すということを意味するわけではない)。
第二点は、規則がなければゲームはないということ。どれほど些細であれ、ある規則が変更されてしまえば、それはゲームの性質を変化させてしまうということ。すなわち、ある《手》、ある言表が規則に外れている場合は、それはもはや、その規則によって定義されるゲームには属さないということである。そこにはすでに第三の留意点が暗示されている。すなわち、
第三点は、すべての言表はあるゲームにおいて打たれた《手》として考えられねばならない、ということである。
p9
到来しつつある社会は、(構造主義あるいはシステム理論が示すような)ニュートン的人類学に属するよりは、むしろ一層、分子論的な言語行為論に属しているのだ。多くの異なった言語ゲームがあり、すなわち言語要素の異質性がある。これらの言語要素が制度を生み出すとしても、それはそれぞれの個別面に応じてでしかない。それはローカルな決定論である。
『ナラティヴ・セラピーの世界』 小森康永・野口裕二・野村直樹編著 日本評論社 1999/03
p62
理論は、言語ゲームの駒の一種である。その意味で、理論は外在的現実を写すカメラではなく、チェス盤に近い。ということは、理論家は人生ゲームの主要な部分を占める言語ゲームにおいて、特定の駒の動きを推進していく実践家でもあるということになる。
p63
論理実証主義と決別し、理論化や実証といった研究的営みを言語ゲームのなかに位置づける自らの立場を、ガーゲンは社会構成主義と呼ぶ。
『言語ゲームと社会理論:ヴィトゲンシュタイン・ハート・ルーマン』 橋爪大三郎 勁草書房 1985
p147-148
国家は、内に向かっては、一群のひとびとの営む(複)言語ゲームが、互いに両立可能であり調和的であるための担保である。そして、外に向かっては、(複)言語ゲームの事実そのもの、すなわち、想像できる限りで最も完全な権力の形象である。
p66-67
〈言語ゲーム〉は何かに基礎づけられるということがない。そのいみでは、全く恣意的である。だから、ある言語ゲームを廃止したり克服したりしようとする場合には、それを上回る言語ゲームを開始して流布させる、ということになるはずである。そうすれば、どんな言語ゲームの外へも出ることができるだろう。だがそれは、別
の言語ゲームのなかへはいることとひきかえである。総体としての〈言語ゲーム〉の外へ出るということは、ありえない。
〈言語ゲーム〉には、端的に言って〈外〉がない。これは、巨大な内閉である。
この内閉状態について、自分は「タライの中で場所を変えるにすぎない」と表現していた。
仏道でいえば、仏の掌中か。
『構造主義をめぐる生物学論争』 柴谷篤弘ほか編 吉岡書店 1989
斎藤嘉文 大意
ウィトゲンシュタインによれば、人間の(言語)活動・生活は言語によるゲームをしているようなもの。実にさまざまな言語ゲームがあるが、その中で人々はしばしば「対象について語り合う」言語ゲームをする風習がある。
対象というモノがゲームに先立ってあって、それについて語る、のではなく、「対象について語り合う」というゲーム。そのゲームの中で、そのゲームの定常項として「対象」が分離してくる。「言葉とともに(対象-)世界が始まる」というのはこういうことなのでは。ゆえ、当然世界(外部世界)は言語ゲーム依存的。対象は言語ゲームのとる状態によって結ばれるいわば幻影。しかし当のゲームに内属するものにとっては完全なリアリティ。
だから、坊さんは衆生にむやみに機能主義的な語りを振りまいてはあかんと思う。たとい破綻しているとしても、腰強くゲームの内部の者としての姿をなんちゃって的に完遂して欲しいと願うんだが。
... 以下つづき...
...
■応用編 橋爪系
「日本人は宗教と戦争をどう考えるか」 橋爪大三郎 vs 島田裕巳著 朝日新聞社 2002/09
p65
【島田】
橋爪さんも、『仏教の言説戦略」のなかで、日常生活についてふれておられます。日常生活は自明で、当事者には信じる必要がないように思われるけれども、実際にはいくつもの異なる日常生活が可能であると。「異なる日常生活(異文化)は、互いに宗教のように映ずる」とさえおっしゃっています。
そうしたことをおっしゃっていた橋爪さんが、伝統的な神道からの逸脱ということを言われる。それは、あくまで神道という言語ゲームのなかでのルールからの逸脱の問題ということであるのかもしれません。ところが、橋爪さんは、靖国神社の問題について語られたときに、「インチキ」といった言葉を使っておられるわけで、そうなると、橋爪さん自身もその神道の言語ゲームのなかにいて、そこで価値判断をしている。私には、そのように思えてなりません。
『世界がわかる宗教社会学入門』 橋爪大三郎著 筑摩書房 2001/06
p142 大意
「言語ゲームとしての仏教」
言語ゲーム language game とは、哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉で、社会生活を成り立たせる行動様式のこと
幾重かの言語ゲームの複合として、初期仏教を記述するとこうなる
1.覚りを訊ねあうゲーム……解脱をめざして修行する人びとの言語ゲーム。
2.釈尊を標本とする覚りのゲーム……釈尊が覚りをひらいたと前提する修行のゲーム。
3.釈尊の言説を伝持するゲーム……釈尊の入滅後、その言説を釈尊の代わりとする。
4.釈尊の戒を持するゲーム……3.のゲームをする修行者たちの集合=サンガを確定する。
5.戒=律違反を告白しあうゲーム……修行の自発性と、サンガの集団秩序とを調和する。
初期仏教〜部派仏教時代の仏教は、きわめて巧妙な組織原理をもった運動だった。
言語ゲームと仏教については、橋爪大三郎著『仏教の言説戦略』(勁草書房、一九八六)を参照せよ。

■応用編 宮台真司系
2006-12-26 20:57:00 MIYADAI.com Blog 宮台真司
オタク問題についての対談(森川嘉一郎さん)での宮台発言抜粋
オタク的文物に内容的な関心のない人々がカネになると思ってオタク的ゲームを仕掛けていますが、ピントがずれている状況です。これはニート現象と似ている。「様々な理由で求職していない若者」は増えても、巷で問題化されている「就労意欲そのものを持たない若者」は増えてない。なのに、増えているという前提で予算と人員が配置され、新しい言語ゲームが始まっている。オタク現象の周辺も同じです。『電車男』が典型です。「オタクの言語ゲーム」ではなく「オタクをネタに言語ゲーム」が拡がっているからです。
日常のコミュニケーションや言語ゲームのメジャー部分に影響を与えたいなら「模倣と反復を通じた洗練」しかない。森川さんも書くように、美少女キャラクターの洗練度は凄い。日本民族の資質を感じます(笑)。江戸時代に存在した非正統的な模倣と反復の中で出てくる伊藤若冲の如きミニマリズム。それが続いています。もっと踏み込めば、日本の正統的美術教育で初期ロマン派的図式が反復されるが故にこそ、模倣的反復にいそしむ人間が「どうせ、オイラは」という出発点をとりやすいのだとも言える。
『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』 宮台真司 (著) 日本放送出版協会 (2007/03)
p254
「何が人間_的_か」という価値の争いなら、政治哲学が模索するリベラルな制度で調停できますが、「何が人間か」をめぐる争いは、全言語ゲームに前提を与える根源的自明性を揺るがすから、回避すべきだとなります。
p199-200
ここでは「その視座に立てるのは誰か」が問題化されています。「生活の質」の視座を取るのが、もっぱら待機患者。「生命の尊厳」の視座を取るのが、もっぱらドナー。すると、どちらの視座も取れない困窮した障害者らがシンポジウムは茶番だと暴れた。どう考えるべきでしょう。
言語ゲーム論的状況です。どんな言語ゲームにも内的視座があり、内的視座の素朴さを問題にする外的視座がありえます。でも外的視座はなんら超越的でなく、観察というもう一つの言語ゲームに属する営みに過ぎないから、それを批判する外的視座が成り立ちえます。
待機患者や患者家族の言語ゲームがあり、ドナーやドナー家族の言語ゲームがあり、どれにも属せない人びとの言語ゲームがあります。どの言語ゲームが優越するかを相対的に論じるのも、もう一つの言語ゲームです。こうした無限後退構造への免疫が必要になります。
免疫を備えない者の言説は、有能なソーシャル・デザイナーに見切られます。「お前の言うことは正しそうに聞こえる。お前の視座に立てば」とね。視座の輻輳を観察するもう一つの言語ゲームの視座を取れないと、有能なソーシャル・デザイナーと渡り合えません。
このくだりは、言語ゲームについて端的にわかりやすい記述になっている。
免疫を持つ者に向かっての語りが、免疫を備えない者にも見える場所に垂れ流される場合。
免疫を持ってくれていてもさ、そのような視座の輻輳をふまえたアクロバット的な記述をするだけの度量がなければ、ただ免疫を備えない者をアナフィラキシーに陥らせるだけだったりするし。それが一番キモイし、自分だってどっかの一家をアナフィラキシーに陥らせていたということを風の噂に聞き及んでいるし、何よりアナフィラキシーの発生が、発生源に「マズイヨ」情報としてなかなか届かないという点が、アレだ。
『幸福論 〈共生〉の不可能と不可避について』 宮台真司 (著) 日本放送出版協会 (2007/03)
p202
数多ある他のゲームの存在を知りつつ、美学としてそのゲームをする人びともいます。彼らは素朴にでなく、再帰的に遂行する。
そう、その姿勢を、自分は坊さんに期待しているんだが。
ミメーシスを放つ姿を、現世で遂行する。
ダライラマのように。ブータン国王のように。それをやってほしい。それが必要なんだ。だのに。
上掲『幸福論』についてはノート有り。

■応用編 フィールドワーク編
『クソマルの神話学』 東ゆみこ著 青土社 2003/09
p240
「考えるな、見よ」というウィトゲンシュタインの呼びかけに応じて、「言語ゲームを我々の体験によって説明」しようとするのではなく、「言語ゲームを確認」し記述すべきなのである。
佐藤由美子『差異空間の神話学 日本神話における「クソマル」をめぐる諸問題』 (所収:青土社「現代思想」 2002/02 vol.30-2)
我々は、「考えるな、見よ」というウィトゲンシュタインの呼びかけに応じて、「言語ゲームを我々の体験によって説明」しようとするのではなく、「言語ゲームを確認」し記述すべきなのではなかろうか。
『名前のアルケオロジー』 出口顯 紀伊國屋書店 1995
p147 大意
クン族では、共同体の外部の見知らぬ他者(G)と出会ったとき、まず彼あるいは彼女の固有名を尋ねる。回答を得るや否や、その他者と同名の者(H)が身内にいるかを探し(いなければ同名者がみつかるまで身内の範囲を広げるだろう)、Hに対する親族呼称と同じ呼称でGに呼び掛け、Hに対する行動パターンをGにも適用するのである。これはGがサンと共通の「言語ゲーム」を共有しない白人である場合にもあてはまることである(白人に対してはその個人名と音声上似たような名前が見つけだされる)。
『「実践のエスノグラフィ」状況論的アプローチ3』 茂呂雄二編著 金子書房 2001
川床靖子「6章 “教室”の言語ゲーム--タンザニアの小学校をフィールドワークする」
p208
チュクチの生徒は,新任の教師がつくろうとしたいわゆる学校的ディスコース(談話)のコンテクストにはのらなかった。明らかに,チュクチの生徒と教師とのあいだには,「言語ゲーム」の違いが存在する。「言語ゲーム」というのは,ここでは,_言語と行為が織りなす活動_といった意味で用いるが,言語ゲームが異なると,そこで使われる言葉の意味がまったく違ってくることをチュクチの事例はよく表している。

■総括
『マルチチュードの文法 現代的な生活形式を分析するために』 パオロ・ヴィルノ著 月曜社 2004/01(2001イタリア)
p25
マルチチュードは、社会的・政治的・哲学的理論の最後の叫びなのでしょうか。そうかも知れません。実際、_多数的なもの_の存在様態から出発しないと、一連の重要な現象 -- 諸々の言語ゲーム、生活形式、倫理的諸傾向、現行の物質的生産において顕著な諸特徴 -- はほとんど理解できませんし、あるいは全く理解不可能なものとなってしまいます。このような存在様態について研究するためには、かなり広範な概念的装置が必要となるでしょう。すなわち、人類学、言語哲学、政治経済学批判、倫理的考察といったものです。要するに、見方のアングルを頻繁にかえながら、マルチチュードという大陸のまわりを航行してゆかなければならないということです。

[カテゴリ 書籍メモ楽屋用] : 2009年07月14日
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