放置とわかりにくく書くこと
カテゴリー[ わたくしごと ] 2008/03/10
■なぜ、わかりにくく書くか。
『 多様性(泥沼)に耐える能力 』 が無い者を、むやみに再帰性の泥沼にほうりこんでもただ詮無いこと。
啓蒙すべきでない対象もある。
踏み抜いたとき、これは真理ではあるが、「能力のない者は知るべきではない真理」だと見た。
知るべきであり、真理ではあるが、正しく踏み抜ききることができる者は少ない。踏み抜ききることができてなお、現実に耐え、ゲームのフリをしてロールプレイしきることができる者は、なおのことレア。
ほかの有象無象にはただ攪乱の種でしかない。
世には、確実に「真理より幸福」を求め優先する層は確実に厚く存在する。認知的不協和回避を見よ。勝手な自己正当化の蔓延を見よ。
まして、交信相手が、他のブロガーが、おのれと同じプラットフォームにいると思い込み「対等」扱いするという誤謬の中にいる半端者が多すぎる。
わかりにくい表現、言い回しを採るのはこのせいだ。
「わかる奴だけ、 耐えられる奴だけ、見に来い」。
こういうビジョン自体、 ネット時代以前のテレビによって形成された「大手放送局寡占」世界観でしかないのかもしれない。

■放置すること
相対性に陥ると、相手のありようを矯正する気がなくなるという面がある。
「それは違うだろ」「それはおかしいだろ」、そういうコミットメントをする気がなくなる。同じ土俵扱いできなくなる。個人の性向にもよるのだろうが(おせっかい共感系か否か)、それ以前におせっかい共感系は踏み抜きができる性向ではないだろう。
誤謬や言いがかりに遭遇しても、
「ああ、この人間はそのような物語にすがって生きているのだな。ご無事でどうぞ、ご自由に」
放置方向に動いてしまう。ある意味、相手の尊重だが、おおかた、単なるディスコミュニケーションの放置になる。
文化人類学系で、この手のリアクションが多めのような気がする。
異論があっても「あんたはあんたの事情なのだね」と放置。異議申し立てがあっても「尊重して」スルー。少しでも「相対主義のプロ」ではない気配を感じると、哀れな存在として壁を立てられる。仲間だとは見做されない。
ニンピニン扱いされて無視される。異世界のたわごととして異議申し立てが処理される。そう感じている者がいるのだ、ということは指摘しておくし、そう感じさせる行動を俺自身、目指しているということも記しておく。

特定の水準以上でわかりにくく書かれたものは、「わかる者だけ来い」というメッセージであると読むべきである。
ネットにいる者は、あんたと同じプラットフォームにはいない者が多いのだ。同じ呼ばわりをするな。
[カテゴリ わたくしごと] : 2008年03月10日
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