文化の多様性と通底の価値という放蕩
カテゴリー[ 書籍メモ楽屋用 ] 2008/02/22
「人類が共に生きるべき「通底の価値」を探る。」
これが、出版者側の売り文句。
『文化の多様性と通底の価値 聖俗の拮抗をめぐる東西対話』
服部英二監修
麗澤大学出版会 (2007/11)
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「ユネスコ60周年事業としてパリで行われた国際シンポジウムの記録。「文化の多様性」がもたらす豊かさとその魅力を解明し、「文化の画一化」が不毛の世界を招くことを提示・・・」
仰々しくもごっつい一冊で、どんなにすごいことが記してあるのかと思いきや。
... 「通底の価値」ってこんなもんなのか。...
おめでたい。
ひでぇ。
浅すぎ。
編者の人脈がダメなのか。
いや、ユネスコ・・・だよな。いや、関係ない連中がユネスコにかこつけてこれを主催しただけなのか?
ていうか、宗教がらみで「通底の価値」を語りに来たがる人材にはこんなのしかいないのか???
最大公約数を求めた場合、視野は深まるどころか、全く浅いレベルでむりくり「似て見えるから通じるのだ」だのとお茶を濁すしかないのだろうか。
いや、お茶濁しレベルじゃないな。見てない。他者と何が通底するのか、まじ見据えてない連中の物言いがぞろぞろと。
ものすごく気持ち悪い。
各人が割り当てられたページ数が少なすぎるからだろうか。数ページで何が書けるのかと。
いや、ページ数もここでは言い訳にはならない。短かろうが、突くところは突けるだろうに、それもなし、というか、斜め明後日向いたポーズとっているだけのがゴロゴロ。
短い論考がたくさん並べてあるわけで、もー見るべき論考を探すのがたいへん。つーか、タイムコストパフォーマンス劣悪、時間の無駄。
各人好き勝手に走っている上、平気で失礼な見解も書きとばしていたりするし。
日本代表で 環境考古学の安田氏がいたりするわけよ。で、フツーにまた自文化中心主義まるだしでなまはんかな文化論をぶつもんだから、マジ「ほかにいなかったのかよ!」。
ただ、「ユネスコ60周年事業としてパリで行われた国際シンポジウム」がマジこんなだったとしたら、フツーに科学は創造論に敗北するな。宗教に負けるよ。
耽溺を指向する人類の煩悩に、科学は負けるよ。
そういう意味で、「愕然とする実態」を見据えたいという人間は、これを読めばいい。
そうでない人間には、時間の無駄だ。こんな本よりもっと読むべき本はたくさんある。

ハルトムート・O・ローテルムンド「明治時代の日本におけるデウス如来とキリスト教への恐れ」
p.34
日本ではキリスト教は、フランシスコ・ザビエルによって一五四九年に始まりました。彼はイエスについてもキリストについても語らず、キリスト教は「西洋からきた仏教の一宗派」であるかのように巧みに語ったと思われます。ですから、神は「デウス如来」となり、キリスト教の教理は、「キリスト教的仏法」となり、宣教師は「僧」となりました。そして、キリスト教は、最初のうちは「新しいキリスト教式の仏教」と説くことによって、日本の仏教に対処するのは容易なことでした。
「キリスト教は「西洋からきた仏教の一宗派」であるかのように巧みに語ったと思われます。」
ちゃうだろ!
なんとご都合よろしく解釈なさることか。
イエズス会宣教師が何を語っても、「それは仏法で語られています」と仏教徒側にいなされてのれんに腕押しだったんだよ。当時の宣教師がそう書き送っているだろ。なにを「思惑どおり」みたいな変形させてんだよ。

安田喜憲「稲作漁撈文明のエートスから見た持続可能性/慈悲と思いやりの精神により地球を救う」
稲作漁撈文明という虚構に耽溺している。足を田んぼから抜け。自分をその側に所属させるな。
文化人類学を見ろよ。
ちょうど 資源人類学のシリーズが刊行されたところだ。
あー、見ても無理かな。 自分野中心主義がここまで根深いと、文化人類学のありよう自体を理解できなさそうだし。
以上、楽屋ならではの書きなぐり。
今月は心がすさんでいる。
[カテゴリ 書籍メモ楽屋用] : 2008年02月22日
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