デプス:リセットやチャンネル変更
カテゴリー[ フィクション禍 ] 2007/07/22
デプスについてもう一度。
デプスというものは、そんじょそこらなものじゃない。
その、そんじょそこらなものじゃない「デプス」の存在を、新しい世代は想定できないというか、感得することはないという。
うーん、どう感得できていないんだろう。
デプスが見えていない?
マナの深淵を見ていないというか、世界のバリエーションが、浅い。
うん、たしかに見えてなさそうだ。
同じもののバリエーションしか見ていないまま、それが世界のバリエーションだと思い込んでいるふしがある。例えば、ゲーム世界の設定のバリエーションだけを見渡して、それが世界のバリエーションだと思い込み、ゲーム世界の外にある深淵は見えてない、みたいな。
浅い焼き直しの群を、世界のバリエーションだと思ってはいないか。
ウェブにある多様さを、世界の多様さの写しだと思ってはいないか。
そういう、あんたにわかるようにこさえられたレールの上に「乗れる世界だけ」しか、そのバリエーションしか、お子さまランチの種類しか、感得できないままにそれを世界の多様さだと思ってはいないか。
そんなもんじゃない。デプスはそんなもんじゃない。
... 以下つづき...2007/0724加筆
例えば、るいネットで横行している「異世界解釈の浅薄さ」。異世界のかけらだけを自分世界に即した都合良さで切り取っていびつに弄ぶ。
例えば、リセットのループで発生する多様な(ふりをした)ルートにドラマを見るラノベや時かけ。ものすごい狭い世界条件の中だけで発生する多様さを、人生や世界展望になぞらえることに抵抗がない感覚。
そんなもんじゃない。デプス(深み)はそんなもんじゃない。
世界観がどこまで断絶しうるのか、それさえも「それぞれの正義」程度の把握で済まされてしまうバリエーション踏まえの浅さ。
そんなもんじゃない、世界観の断絶はそんな浅いもんじゃないし、そのさらに深奥に、朧な「ヒト性質とヒトコミュニケーションの限界」という歯車が断絶した世界観らに共通する傷を穿ち、さらにその深奥に歯車を無碍に変容させる恐ろしい理があり、さらにその奥に…
深淵を覗かずして アノミーに走ることなかれ。

というのが、旧新人類から見た、イマドキの若い者世代だろうか。
前者は、「チャンネル変更」の世代だ。後者は、「リセット」世代。
テレビ番組か、ゲームソフトか。
前者は、チャンネルとチャンネルはけして混じり合わないお約束。番組と番組は、ドラマとドラマは、アニメとアニメは、みな違う世界を表していてけして混じり合いはしなかった。それはそれ、これはこれ。断絶した世界として多様な世界が提示されていた。
当時の世代にとっての理想は「自在にチャンネルを変えて生きる」ことだった。
…これが当時一世を風靡した「スキゾキッズ」だったわけだ。ひとつの物語が結末を迎えれば、もうその筋書きには用がない、さっさと次の番組にチャンネルを変えていく、それがスキゾ。
後者の世代は、ゲームのリセットで「より良い世界」を掴むように馴致されてきた世代。世界(ゲームソフト)も登場人物も設定も自在に選べる(同人誌/コスプレ)が、自在に選べるようでいてその実は、ゲームやキャラ、メディアというお約束の拘束や基盤のせまあい範囲内でしかない。
彼らにとっての理想は「たくさんのやり直しの中から最善の一つを選びたい」。
敢えていうならば、「異質な他者」という存在に対する想定や感得があさはかになりそうな後者は、いや、「あんたはあんた」という棲み分けポーズだけ先走って「異質な他者」という存在に対する想定や感得があさはかに終始するようなことが後者で顕著になるのであれば、これは自覚が困難なだけに、かなり失礼でなさけな〜い事態かも。

失礼さといえば。
もう、多様性も糞も関係ない世界観もある。
「チャンネル変更」でも「リセット」でもなく、ネット言論の世界というか、
・ネットを介して
・最低限の機能的ルールだけであとは一切考慮しないナンデモアリ
の、例えば「デスノート」や「ライブドア」の世界。
最低限の機能的ルールだけで、世界をすべて統べようとする、もしくは処理してかまわないとする。多様性などクソ喰らえ、倫理など机上の空論扱いのウラワザOK。機能をうまく使って出し抜けば、結果オーライの「意味」無縁な、いわば効率至上世界。
これは、機能がショボイ通信網しかなく、しかも匿名がまかりとおる現在のインターネットや裏技ゲームが醸成した世界観だ。多様性を無視して成り立つ世界だ。
はたまた、ケータイ経由で世界を見てきた世代も勃興しているわけで、彼らの世界観では、機能も効率も二の次だったりしている。ケータイが提供してくれる世界だけでやっていける。ケータイが持つ構造が何によって何を意図して作られているか、など気にする意欲はない。使えるものがそこにあるから使う。アーキテクチャに飼い慣らされる。
システム側がお膳立てしてくれるフィールグッド化に耽溺(たんでき)してしまう。
多様性っぽいものはすでに日常世界のバックグラウンドの隅でかすかにノイズを発している影に過ぎず、無視する以前に、感得さえされないかもしれない。
何が見えていないのか。
そこにどんなデプスがあったのか。

このデプスの感覚を保持する手段として、いや、保持しなければ、厳とした多様性やカルチャーショックがなければ「何が見えていないのか」感が保持されない。


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『波状言論S改 社会学・メタゲーム・自由』 東浩紀,北田暁大,宮台真司,大澤真幸,鈴木謙介 青土社 (2005/11)
[カテゴリ フィクション禍] : 2007年07月22日
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